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それでも歴史は動く [精神科医]



砂漠の王イブン・サウドは1902年にリヤドを奪回した。また、初代サウジアラビアの国王として、1938年には石油を産出させ、現代の原油立国の礎を築いた。

ムハッマド直系のイラクのサダム・フセインの国をブッシュが攻め、占領している中、一昨日には「冬の兵士」帰還兵の勇気ある証言を聞いた。その戦争の「交戦規定」カードは有名無実で機能せずに、口頭でころころ変わり、恐怖が民間人殺戮(さくりつ)を呼んだことを生々しく、映画ドキュメント『冬の兵士』(田保一寿・たぼ かずとし)さんの映像が伝え、二部の午後にはアダム・コケッシュさんが反戦イラクの会の証言者として、「冬の兵士日本ツアー」の事実をフォローした。また、リック・レイズさんはアフガニスタンとイラクに従軍の経験を持ち、今年には民間人としてアフガニスタンを再訪、両氏の貴重な証言は『冬の兵士』(岩波書店)から翻訳、発刊され、話題になっている。しかし、ほとんどのマスコミはこのような活動があることを無視し、巨人が優勝したことを大きく取り上げるだけだ。しかし、小さな一歩が大きな動きになっていることは田保氏が「このようなツアーができるのは、一年前には考えられなかったことです。このドキュメントの取材もわたしと赤旗だけでした」と解説があり、感慨深い思いがマイクと通じて伝えられ感動した。このようなことに、つまりイラクの最前線に行き、ジャーナリストの良心によって、活動されている方がいる。

オレは昨日来、喉風邪からか、体調は最悪で汗が何度も噴出し、本来のいらだちやすい性格はもろに出て、小さな役所の手続きの変更まで、頭に来る日々だ。医者に通うつもりが間に合わず、身分証明のため、盗難した免許証の再交付に行ったことのない、神奈川の二俣川まで行った。そこでも、同じパターンでつけまつげが出たり(本物か不明)身内らしき連中が無言で現われたり、役所から道中の間も身のやすまることがない。(詳細省略)しんどいのに、無理して帰り、相武台で降り、病院に行った。処方箋もらい、薬を現場でのみ、イソジンでうがいし、アパートに帰り早々に寝た。それでも回復しない。睡眠時間は12時間以上に及んだ、その前の日も10時間以上は寝ていた、それでも起きられないのだ、いまも、頭と身体がだるい、食欲と気力は失いたくないというのは、自由に生きたいことと、息子を思うとこのまま、連中(いろいろ個人をいじめる権力者・メディア)の圧力に負けて死ねないという、強い思いだ。
メディアはあいも変わらず、特番(とくにテレビ)に終始。だれが見るのか、世の中歴史は動いているのだ。

本日のサウジアラビアに男女共学(なんという響きだ)、日本だって64年もさかのぼれば、ほとんど男女共学の響きはなかったんじゃないの。オレの通う戦後の工業高校には一学年に数人いた。それなりの娘。もちろん、取り合いなどならない。もてる連中やませた連中は女子高生をものにしていた。

オレはあそびのサークルでやっとガールフレンドを持ったころだ。また、中学時代の憧れの娘が近所の女子高生と友達だというので、お嬢さま学校のその娘にアタックしたが見事にふられた。卓球外交の先鞭をつけたのは誰あろうオレなのだ、と誇大妄想を書いておき、この日のイブン・サウド以来のサウジアラビアが対米国を改善して、中東の平和に寄与すること願う。また、オレの再生、有効活用をした方が得だということを、普段は損得ではあまり動かない、生身の人間として、マスメディアに生意気な哄笑(一部ホンネ)と、交渉にはビジネスライクに、外交努力を、と付け加えておきたのだ。

とらちゃんよろしくお願いします。コーネルアンサー!

早く相模原を撤退したい住民の証言でした。具体的にはあまり書いてませんが。備忘録として。







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紳士はオアツイノガお好き!(日本歴史) [精神科医]

歴史を読み直して、現代政治の力学を眺めると、思わずこんなタイトルを書いて見たくなった。オレはいま、和歌森太郎古代史・中世史を再読し、また『天皇制の歴史心理』を再読して、愛国心って何なのか、国ってなんなのか、いわゆる、嶋国の日本国はなぜ、天皇制を必要としたのかを、考えているのですが、奈良の大仏の象徴は国家宗教であり、聖武天皇発願後、すったもんだして、天皇が病にかかり、考謙天皇に(女帝)に譲り自分は上皇となり、年号が天平勝宝となり752年にようやく開眼会(かいげんえ)ができたらしい。

その間、仏教の二重構造があり、行基が民間信仰に活躍し、他方で権力者が仏教の力を反映させるために、使役を民衆に背負わせて、蘆舎那佛(るしゃなぶつ・大仏さん)を造るのに743年発願から約10年の歳月かかり、民衆の寄進、勧進に行基を利用した。一方で天皇制中心の貴族仏教隆盛をはかり、弾圧された行基だったのにね。

平城京遷都745年。オレは藤原宮にはいわく言い難い思い出がある。橿原市の165号線に沿って道路が整備され、「ロマントピア藤原京’95創都1300年」のイベントが行われた。オレは自分の体調不良とこの年の1月にあった阪神淡路大地震の影響で最悪の状態になった。不規則と寝不足と自営業の破綻への恐怖と自分の健康破壊が同時進行する中、「生きているうちが華なのよ!」と新人編集員に好待遇(アパート提供・年俸500万円弱の保証)という破格で乗り切りを図ろうとした。春、オレはあぜ道の路肩の会場に重たい合本『やぁ吉野・飛鳥』を運び、元妻と幼い息子を脇に置き、合本『やぁ吉野・飛鳥』売った。

自分が組織を作る人間ではないことを思い知り、妻子を路頭に迷わすわけにはいかないと、某球団の創建60年にあわせて、数冊の単行本の出版も試みた。焦っていたと思う。生き急ぎしたと思う。しかし、あぜ道を広くしたイベントの路肩で自分の歴史の売る行為には、何のためらいもなかった。自己満足かも知れなかった。もう少し政治的に動けば解決した問題と裏腹に、たくさんの仕事をした、という自負もあった。自分にしかわからないことであり、オレが聖徳太子の「捨身虎図」(しゃしんこず)の故事にこだわり、野球の仕事はもうたくさんだ、という思いにかられたまさに、年でもあった。震災後の無力感。自分が編集者となって初めて発売日に発行できなくて、読者になじられた屈辱感、多くの読者は震災の影響に思慮などなかった。事務所の大理石の置物の虎を刻んだ絵がこなごなになり、動くはずのない重い本棚やロッカーが動き倒れて、天井にヒビがいったこと、それでも、歯をくいしばり、夜中に岡山・倉敷へクルマを走らせ倉敷マスカット球場に行った道すがらの神戸へ向かう悲惨な被害事情に絶望したこと、さまざまなことを思い出す。

さて、来年は平城京遷都1300年のメーンイベントの年だ。「政権交代」(天智天皇から天武・持統天応・文武天皇)して、飛鳥浄御原、藤原京では藤原不比等一族が栄華を極めたのだが、聖武天皇時代は藤原仲麻呂らの勢力が落ちかけて、大伴氏・橘諸兄(たちばなのもろえ)などと権謀術を競った。奥州・陸奥の国で金がでたことで、大伴家持(おおともやかもち)らが暗躍したらしい。開眼会は聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇と貴族たち官僚が参列して行われた。行基は???、

民衆にとっては天皇家の仏教が民衆支配の国教であったことに変わりはない。

で、「平城京遷都1300年」のお祭りの名簿調べたら、自民党の利権構造まるわかり。
ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E9%81%B7%E9%83%BD1300%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E4%BA%8B%E6%A5%AD

平城遷都1300年記念事業推進委員会 [編集] 委員総数153名 * 会長 - 御手洗富士夫(日本経済団体連合会会長) * 委員長 - 下妻博(関西経済連合会会長) * 顧問 - 秋山喜久、森喜朗、奥野誠亮、平山郁夫、石原信雄 東アジア地方政府会合実行委員会 [編集] 委員総数22名 * 委員長 - 石原信雄(地方自治研究機構会長) * 副委員長 - 佐藤行雄(日本国際問題研究所理事長)、谷野作太郎(日中友好会館副会長) * 顧問 - 二階俊博(日韓議員連盟常任幹事)、野村明雄(近畿商工会議所連合会会長)、藪中三十二(外務省事務次官)、森喜朗(日韓議員連盟会長)、平山郁夫、瀧野欣彌(総務省事務次官) 日本と東アジアの未来を考える委員会 [編集] 委員総数95名 * 委員長 - 平山郁夫(日本美術院理事長) * 委員長代行 - 川勝平太(静岡文化芸術大学学長) * 顧問 - 下妻博 * 幹事長 - 松岡正剛(編集工学研究所所長) * 幹事 - 福原義春(資生堂名誉会長)、野田一夫(多摩大学名誉学長)、寺島実郎(日本総合研究所会長)、 小林陽太郎(富士ゼロックス相談役最高顧問)、喜多恒雄(日本経済新聞社社長) 平城遷都1300年記念事業推進議員連盟役員 [編集] 2007年11月15日現在、総員115名 * 会長 - 森喜朗 * 顧問 - 中川秀直、中川昭一、丹羽雄哉、青木幹雄、片山虎之助 * 副会長 - 麻生太郎、伊吹文明、高村正彦、古賀誠、谷垣禎一、津島雄二、中山太郎、二階俊博、町村信孝、山崎拓、与謝野馨 * 幹事長 - 河村建夫 * 幹事 - 大島理森、尾身幸次、久間章生、小坂憲次、小杉隆、塩谷立、島村宜伸、下村博文、武部勤、中馬弘毅、渡海紀三朗、中山成彬、西村康稔、額賀福志郎、鳩山邦夫、福田康夫、細田博之、柳沢伯夫、尾辻秀久、小野清子、北川イッセイ、中曽根弘文、舛添要一 * 事務局長 - 棚橋泰文 * 事務局次長 - 奥野信亮、鍵田忠兵衛、高市早苗、田野瀬良太郎 交通網の整備 [編集] 2010年の遷都祭開催に向け県内北部では道路や鉄道を中心とした交通網の整備が進められている。 道路 [編集] 道路関係の主な工事としては阪奈道路の第二阪奈道路合流点(宝来ランプ)-尼ヶ辻間の8車線化工事が挙げられる(国道308号大宮道路)。これは現在片側2車線(合計4車線)しかなく慢性的に渋滞が発生している(第二阪奈の開業で車両流入量が増えさらに悪化している)同区間の状況を緩和するべく、新たにこの区間に4車線の高架路を作り遠近分離を図るというものである。また、三条通の拡幅も予定されている。 このほかにJR西日本奈良駅の高架化工事が進められている。これは現在地平にある線路を跨線橋で超える構造になっているのを全く逆にする(付近一帯の線路を高架にし道路を地平に移すことによって踏切を無くす)大規模な工事となっている。完成後は駅ホームも高架となり、駅舎も現在の仮駅舎に代わって奈良の歴史をモチーフにしたデザインのものとなる。また駅周辺は西側にホテル誘致・総合保健施設、東側に商業ビルなどの再開発も進んでいる。「奈良駅」の項目も参照。旧駅舎は観光案内所としてリニューアルされる。 鉄道 [編集] 鉄道関係では近鉄奈良線大和西大寺-新大宮間に会期中限定の臨時駅を設置する構想があったが断念された[7]。検討されていた設置場所は国道24号バイパスの高架下付近(平城宮跡の東端)だった。なお近鉄奈良線は阪神西大阪線難波延伸工事(阪神なんば線)が完了し、2009年より近鉄奈良-阪神三宮間で相互直通運転を開始。 一方、JR西日本もおおさか東線南区間(久宝寺-放出)開業の2008年には同線・東西線経由で奈良-尼崎間に快速列車を走らせている。当初計画されていた新大阪-外環状線-奈良間の列車は北区間の工事の遅れにより2010年の会期には間に合わなくなっている(2012年完成予定)。また、JR関西空港駅よりJR奈良方面への臨時列車の運転が計画されている。

引用終り。

「政権交代」なったら、このイベント予算300億円はどうなるの。二階や奥田など落選しているし、森木ローなどどこでも顔だしているし、文化的には無縁な感じですけどね。早い話、道路建設の推進円滑イベントといえなくもない。県立飛鳥万葉文化館あの箱物立派過ぎて、とても黒字化しようのない物ですわね。山ぶっ壊して、常設展などでは全然観光客足らない。特別展しても限界がある。ただ、あそこの民衆の村再現されたところ入ったら、オバケ屋敷より怖い迫力あったね。怨念というか怨霊がいるかのごとく、笑い飯が漫才のネタにしていたが、飛鳥万葉文化館はお勧めやね。中西先生には万葉集の第一人者としてご活躍を願っておりますが、スーパーな箱物ですな。飛鳥を愛するオレの実感としては。

「唐を中心とするアジアに日本を位置づける大きな象徴」
それが蘆舎那佛(るしゃなぶつ)大仏さんだったとさ。

本当は弓削の道鏡にゆきたかったのに、寄り道しすぎて、行けなかったので、つづきはまたの機会に。

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都はるみにグリコファイトで、二度泣きのドン・キホーテ [精神科医]

こんなつもりはなかった。こんな展開になるなど、自分では思わなかった。ただ、この歌を生で聴いたら泣くという自分の予感はあった。『大阪しぐれ』で少しウルがきた。一コーナーの衣装の着物のデザインが358と緑地に黄・赤・青の数字がデザインされていて、派手でモダンだったが、はるみちゃんに良く似合っていた。一部では、『浪花恋しぐれ』を一人二役で歌った。その趣向が新鮮だった。それで十分満足だった。

次は客席右横の通路から現れた。はるみちゃんにおっさんやおばさんファンが握手を求めていた。演歌のお客さんだから成立する趣向だ。ヒップホップ歌手がこんなことやれば、それでなくても総立ちなのに、パニックになる。事実、ホールであっても、客席とのガードは厳しくスペースを取ってある。ところがはるみちゃんは、演歌歌手だ。ファンも礼儀正しい、おっさんやおばさんばかりだ。若い人はいない。ノリがヒップホップと全然違う。こちろらは、実は都はるみのファンではあったけれど、それははるか昔のことで、最近の歌など知らない。演歌そのものも見ることも年に一回ぐらいしかなかった。それでも行きたかったのは、都はるみの歌にはオレの悲しい、恋愛経験が詰まっていた。

『涙の連絡船』、オレは前奏が鳴り出しただけでウルがきた。そうして「♪いつもむれ飛ぶカモメさえ とうに忘れた」とはるみちゃんが歌い出しただけで、涙がでてきた。この歌には、ほろ苦い思いがある。オレの連絡船は四国と山陽を結ぶ宇高連絡船が主だったが、それは涙して思い出す歌であった。いや、はるみ節全開のステージは、ライブならではの情感があった。オレはハンカチなくては聞けなかった。ちいさく口ずさんだ。もうひとつの曲は
『夫婦坂』だ。自体験でできなかった『夫婦坂』への思いをはるみ節が容赦なく攻めてきた。オレはいつの間にかまわりがおっさん、おばさんであることを忘れていた。2723752

宇崎竜童作曲・作詞阿久悠の『ムカシ』という歌は初めて聴いたが、ノリが宇崎サウンドで演歌の雰囲気はなかったので、思わず調子にのって「イェイー!」と叫んでしまったが、この若者のノリは、オレ以外にはなかった。楽しかった。ちょっぴり悲しかった。はるみちゃんに花束を用意しなかったことを悔いた。それでも、意気揚々と高揚した気分で、アパートにまっすぐ帰ってきた。衆議院の補正予算委員会の審議を見るのを中断して、昼の部に行ったからだ。

思えば、三十ぐらいのとき、仕事先の若いディレクターに、オレが歌う演歌を「ダサイ!」と一刀の元に切り捨てられていた。亀井久興氏の質問を少し見た。その後に、今日のはるみ節の興奮をひきずっていたので、Y0UTUBEを検索した。そうしたら、『好きになった人』がでてきた。何曲か検索をしていると、『涙の連絡船』が市川昭介指揮で、はるみちゃんが若き日に歌っているシーンがでてきた。

オレはためらわずに、この曲を聴いた。そうしたら、市川昭介氏が亡くなった三年前を思い出し、またこの歌のシーンで涙した。これはやばい。オレはまったくそのつもりがなかったのに、衝動的に当日券がないか、電話をした。時間は六時をもう過ぎていた。夜の部も行きたくなった。藤田まことさんと歌うという『浪花恋しぐれ』は見れなかったが、二部から見れた。趣向をもう知っているから、珍しくないが今回の席は中央の15列24番だった。もちろんよそみしている余裕はない。オレは客席で歌うはるみちゃんを参列前で見た。二列目だったら握手しに行ったであろうけれど、通路には係員がいたので、参列目では手が届きそうになかったので、表情を眺めていた。

昨年の事実上の夫を亡くした不幸から立ち直り、「私は元気だけが取り得ですから、今後ともよろしくお願いします」と、5月20日発売予定の『小さな春』を披露した。何かはるみちゃんのメッセージが伝わってくる歌詞で、しかも歌いやすいメロディだった。

ファイナルは『好きになった人』だ。

「♪さようなら さよなら 元気でいてね 好きな二人はいつでもあえる」とフィナーレは別れを明るく演出される歌だ。手拍子は手馴れたファンもいたが、全体はおとなしい。しかし、はるみ節のパファーマンスは全開モードだった。オレは昼もそうであったように、夜の部でも「さようなら」の部分は大きく手を左右に挙げた。これは演歌にはないらしい。若者ライブのノリだった。

上機嫌で一日にグリコ二箱食べたノリの出費をしてしまったが、せめて気の利いたアレンジメントぐらい届ける配慮をためらったのが悔やまれる。それでもいい、また、見るチャンスがこれでできた。

A・Nだってシャウトをさらに張り切って歌うだろう。

「はるみさん、に負けられない」

まぁ、もう行く予定ないけど。今日の都はるみ衝動で予算はパンク。

帰ってきて、少し竹中労の本を読み、WBSが行われれるころには、冷静になり番組見ていたら、

「タミフル」が話題になっていた。そんなつもりなかったけど、横見てないもん、相手が声かけてくれないと、わからない。それにいま、Mさん問題は休止中だ。選挙前に恣意的に利用されたくない、彼女が話しかけてこない限り、オレから何か聞くことはない。まして、第三者がいま、入ってもややこしくなるだけだ。

自分の保険は大きく幅広くかけなければならない。

その時期こそご縁がくるときだ。そうなることを願っているが、まだ、ならなかったということだった。

いや、はるみ節いいね。演歌の良さ再発見や。けど、他の演歌まで手伸ばす余裕はない。

それなら、井上陽水や小田和正や河村隆二や中村中や、また中島美嘉や、A・Nをもう一度体調万全で参戦しなければならないことになる。多分、そうはならない。

すべては選挙優先、政権交代優先! 

それでも、縁があれば愛の問題はうまく行くかもしれない。と楽天的に考えて見る。

いや、朝のトラブルから思わぬ一日となって、9日になってしまった。















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ピカピカに光った『雨あがる』の女優へのファン・レター [精神科医]

ピカピカに光った クイズダービー 女優 クイズチャンピオンのいい"obasan"の風景

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いや、思えば後悔の連続だった。『週刊朝日』の女子大学生シーリーズで美女颯爽と表紙飾り、ミノルタカメラ(現コニカミノルタ)のCMではずかしそうにTシャツとジーパンを脱ぎ、豊満なビキニ姿を披露、男心をくすぐったM・Yさんはおばさん世代になっても、なぜかセーラ服が似合う。このミスマッチクイズの女優枠にM・Yさんがでているかどうか、オレのスイッチを入れる基準になっている。そこのリアクションだけみたい、というクイズリアクションフチになったのは、女は年齢を重ねてより、可愛くなるという仮説が成立する女優として、映画『雨あがる』の剣術師範の妻役を見たからだった。なかなか仕官できない腕利きの世渡り下手の夫を支える妻役は女優宮崎美子しかできない役のように感じたものだった。

 実は一昨年あんなとこであんな姿で会っていたのを思い出したのは、随分時間が経ってからだった。その女優M・Yさんがオレの好きな歌手のひとり、N・Mのライブに娘?と来ていたとしたら、その可愛いお母さんがM・Yだったら、やっぱり、あの空間のひとつ前の席は幸運のシートということになっていたと、いま、思う出すと、ものすごく損した気分になったのは、昨夜、SPORTでUEFAチャンピオンリーグのニュース映像の途中で、丁度クリスチアーノ・ロナウドの40メートルはあろうかという、FKが無回転でアーセナルのゴールにボールが吸い込まれたときだった。その後カウンターからパク・チソン、ウエイン・ルーニー、右サイドから駆け上がったC・ロナウドが61分に3点目を奪い快勝を伝えたときだった。その後、ビーチバーレーの映像があり、連想ゲームがミノルタ、Tシャツ、ジーパン、ビキニ、豊満、pika02.jpg
ぴちぴちに光って、M・Yとなったわけで、そのイメージでテレビを消し眠った。
 朝もイメージが残っており、100円ショップで買った小さな掲示板に『週刊文春』の
《「時代に愛された50人の美女たち」》シリーズのY・SやM・Yのグラビアを切り抜き、ランダムに貼り付けていたのを、いつも見ていたので、急に気になりだし、恋文シリーズを書こうか書くまいか思っていて、夕餉に図書館に返却しなければならない本があり、小雨降る中、どのスニーカーも底や縫い目から水が入るのを気にしながら約30分かけて歩いた。

途中で図書カードを忘れたことを気づいたが、
返却が目的だから、とにかく返えそうと、本当は明日の午後に相模大野グリーンホールまで来る予定があったのに、このことだけのために来た。そこで、また、オレの瞬間湯沸しが出た。
「カード忘れました。でも返却だけですから」と係りのおばさんに告げた。そうしたら、以前は付箋がついていても、「いいですよ!」といわれたので、そのまま返却したら、
「付箋とってください」といわれた。まあ、いいかととっていたときに時間があったので、
「三週間前に予約した本のメールが未だに一冊も届かないですけど、わかりますか?」とたずねた。そうしたら、
住所、名前、電話、生年月日まで書かされた。その時点でオレは不愉快になっていた。こんな手間をかけるなら、明日ここのホールへ来たついでに、図書館にくればいだけだったのに、そのおばさんは、
「住所が変わってますね。住所変更してください」と言い出した。しかも、「身分証明するものありますか?」そこで、オレは腹が立った。もともと図書カード忘れたと告げていたので、そこまで手間かけて、予約本が届いているかどうかを知りたかったわけではない。
「あなたら、そんなこと言ってるから、お役所仕事といわれるんですよ!」と思わず怒鳴った。もちろん、怒るのはよくない。しかし、身分証明などできるなら、図書カードも忘れないっていうのが、先にオレの頭にきたことだった。そうしたら、見おぼえのあるおばさんがでてきて、いま、一冊予約本が届いたという。
「どうしますか?」というから、

「明日また来ます」と告げた。つまり、オレの行動に少なくとも、苦々しく思っている人たちが、悪気なく、そういう態度をしていることは、みえみえだった。また、仮にそうでないとしても、いままで図書館で本を借りるようになって、パスワードを忘れて、パスワードの変更などをしており個人情報は開示している。住所変更手続きがされていないことは、オレが新住所を書いたからわかったということだろうが、オレは本来明日来たかったんだ。ところが返却本が7日になったものがあり、3冊とも返したのだった。そんなことで腹を立てるのは、精神衛生に悪い。何が苛立つ原因なのかは、わかっている。恣意的に策をめぐらす人たちと会話が成立しないことに尽きる。体調も雨が降ると腰が痛くなり、疲れやすい。
 つまり、そんなとき、元妻のようにオレの怒りに火に油を注ぐか、 「うまく、オレをなだめて、明日わたしが取ってきてあげる」という、女性がM・Yさんやったら、うれしいなぁ、味噌汁雑炊のめし食いながら『雨あがる』をふと思い出したのだった。

 ところで、M・Yさんは阪神タイガースファンらしい。
 あるとき、甲子園球場で浪速の春団治ことK・Kさんと床につかんばかりのうんこすわりで談笑していたことを見たことがある。思えば、あの時の笑顔はタレントとして女優として、輝きだした瞬間だった。

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八雲立つ、神宮に風神雷神 [精神科医]

南命山 善光寺

早稲田は左フツクを放つのか?
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写真は表参道にある、善光寺別院の山門にある、風神雷神像(なぜか写真は立て位置なのに映像が立たない)。(10月8日に追記修正)

早稲田は立大に延長14回勝ち越し、八回から好投した大石の投打の活躍で勝ち点を獲得。斎藤の連投(7回2失点)の力投に報いた。それにしても、新チームの早稲田は好機に打てない。これでは、他チームの強化が進んでいる春季リーグは波乱の予感大だ。

ところで、この風神雷神像は誰に味方するのか。それが問題だ。

ちなみにこの善光寺別院は南命山善光寺という。(ここが微妙だ。)

ちなみに筆者は浄土宗です。(笑い)

本日も十念。つまり南無阿彌陀佛を唱えて、神宮に向かったのであった。もちろん、趣味の斎藤佑ウオッチングだ。
しかも定額給付金が入る予定もあるので、本日は内野席を奮発した。おけげで、アイス中毒する資金が亡くなったのだ。














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公開恋文仕様 40年前のホンダ1300 9Sが輝いた西日の焼け具合? [精神科医]

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SPORT H・T様

かつて、工業高校に通っていたオレは、自分が工業高校に入学したことが間違いだったことを痛感したものだった。機械科というのでいろいろな実習があった。溶接の実習。危険物取り扱い実習。旋盤による、ノギスなどの製作。キューポラによる、鋳物実習。ねじ切り実習。さまざまな実習の実技採点がいつも仮に松竹梅でランクつけするなら、梅だった。

早い話、不器用だったのでガス溶接実習では、何回もガス火を不完全燃焼させ、ガス欠になってガス自殺に仲間を追い込んだ。アーク溶接つまり、電気溶接したら、肉盛りが均一にならずに、無駄に溶接棒を消費して、先生を嘆きの奈落に落とした。
理屈はそこそこ覚えるのだが、もともとあの機械工場や鋳物実習の工場の匂いが苦手なので、不器用が増幅され、起用にこなす同級生にも、馬鹿にされていた。初めて、キューポラのある鋳物実習工場で砂型から鋳型を作り、キューポラから鋳物用のアルミを流したら、鋳物の型枠の左右がまちがっていたために、おしゃかになった。鋳造したバリを取る作業をする以前の失敗だった。

つまり最中の皮ならずれようがないが、左右均一でないモノを鋳造するには、鯛焼き器のように、上下は空間が作りたい鯛の形になっていなければならないのに、オレは型枠そのものの製作が同級生より遅れたために、焦り、左右の型枠を間違って仕込み、その鋳型に流し込んだアルミは、無残な残骸となってしまった。その形は知恵の輪を大きくしたような金具だったので、

「お前は機械には向いていないな。あかんわ」

以来、実習の職人上がりの先生に、こいつには教え甲斐がないと、諦めさせた。

そこで、オレは二年になり、図書部と原動機クラブに入った。せめて、クルマの運転ぐらい覚えておきたい、というささやかな先生への抵抗だった。鋳物の実習室と違って、原動機クラブは、先輩から寄贈された、ポンチャックなどのアメ車が置いてあった。また、運転実習用のクルマも先輩で生まれながらの整備技師のような部長がエンジン分解から、ピストンなどの部品をすべて、分解しなおし、整備用オイルで磨き、組み立てるという、四気筒エンジンの分解整備の補助作業を他の部員と手伝ったときは感動的だった。オイル漏れを起こすガスケットを新しいものに取替え、点火プラグも新しくし、エンジンをふたたびクルマに取るつける作業に及ぶと、その先輩の腕は魔法のように見えたものだった。ダイナモの補助として、クルマの前からクランク棒でエンジンを回すと、ブルブルドドーっとエンジン音がすると、先輩部長は神々しく見えたものだった。キャブレター、ファンベルト、エンジンオイル回り、ブレーキ回りも当然ながら、部員がすべて整備をやる。その上級生は孤軍奮闘していた。当時でも、バイクで通う生徒も多く、金持ちや町工場の息子はクルマの運転ができていた。

オレは入学してすぐに入った軟式野球部は身体を壊し三か月で辞めていた。二年の秋は東京オリンピックイヤーで、勉強より、オリンピックに熱中した。原動機クラブでは、雑用をすれば、運転実習させてもらえるという、特典があった。部費はかかるが、アルバイトでナントカなった。同級生部員には、細かいことにこだわるOや字がうまく、喧嘩ばやくて、プロレス雑誌を愛読するKなどがいた、オレも短気な方なので、三人はよくもめた。
あるとき、Oは部長を怒らし、温和な部長にぼこぼこにされたことがあった。部長はプロの腕を持っていたから、オレたちに与えた課題が全然できていないと、当然、注意していた。

言われていることはわかるのだが、技術が伴なわなかった。さて、クルマの運転する段になって、エンジントラブルがあると、部長が怒るのは、当然だった。限られた予算で部品を調達し、運転実習で後輩を入れたのに、その後輩が頼りない。部長の絶望感は大きかったと、思う。

オレは運転実習も嫌いだった。
近所の夜間高校生が兄貴分だったので、その人についてI高校へ行き、実習運転させてもらったが、クラッチはすべらすし、蛇行させるので、「お前は運転やらせん!」と、以後は雑用係になった。
だから、オレは「運転するか?」と部長に言われるのを避けていた。エンジンかけるクランク回しはうまかっただけだ。大きなアメ車など乗ること自体、考えられなかった。左ハンドルだし。座席に座るだけで十分だった。同級生部員はそこそこ運転はできたが、トラブル直しは苦手だった。分解すればするほど、何をどこにどう配置すればいいのか混乱した。特にキャブレター回りのトラブルはやっかいだった。

ちなみに、いまだからいうが、オレは義兄が軽四輪を乗ってきたクルマに、内緒で運転練習したことがあり、間が悪いことにT警察所近くまできたときに、パトカーが前におり、動揺して、蛇行運転したのを、止められ、サイレンまで鳴らされて、補導されたことがあった。しかし、その部長が卒業すると、なぜか、自分が部長にならされた。オレはエンジンやクルマの整備より、部品のスケッチや展示のテクニックを他の部員に認められたのだった。本来、無免許で補導されたのだから、停学になってもおかしくなかったのだが、他に補導歴は中学以後はなかったので、書類送検と略式裁判で許されたのだった。したがって、学校は休まずに済んだ。

で、クルマについては、以後オレが部長のときは、自分は運転しないことで下級生をごまかした。同級生は知っていたが、そのころは、ちゃんと整備して動くクルマがなく、いたずらに、部室でオイルまみれになるのが放課後の日課だった。

最近、オレのアパートの近所にいつもカバーがかかったクルマがあった。
そのお家の前をいつも通っていたのだが、そのクルマの主がたまたま、フロントカバーを開け、エンジン回りをピカピカに磨いていた。オレはあまりにも珍しいクルマなので、立ち止まって見とれた。

「知ってるかい。4540年前の 70年型のホンダクーペだよ!」
「もう、部品ないからね。ガスケットなどもないので、オイル漏れには注意しないといけないけどさ。いまもよく走るよ! 空冷4気筒だからさ、ラジエターがないだろう。冷却ファンはエンジンルームの横に大きなのがついてるんだよ」

その老人の自慢のクルマは4540年前のホンダ・1300クーペ9Sだった。2ドア。直列四気筒4キャブ仕様で、空冷のフィンはフロントの横で羽を広げるように西日に光った。4キャブのキャップは高価な磁器のように磨かれ、別世界を主張していた。クラッチ板はエンジンを下ろさずに、フロントから整備できるという。

「この前のオーストラリアのF1見たかい!」
「ホンダの撤退は残念ですね」
「でも、エンジン以外は新しいチームに提供してるだろう。この次はマレーシアで次が中国(上海)だったかな!」
「F1みておられるのですか?」
「うーーん。フジにもよく通ったよ!」





クーペ9 S 製造期間 1969年-1972年 乗車定員 5名 ボディタイプ 4ドア セダン・2ドア クーペ エンジン DDAC(空冷) 直4 SOHC 1,296cc 4キャブ仕様:110PS/7,300rpm 11.5kg・m/5,000rpm 1キャブ仕様:95PS/7,000rpm 10.5kg・m/4,000rpm AT仕様:80PS/6,500rpm 10.2kg・m/4,000rpm 変速機 4速MT・3速AT 駆動方式 FF サスペンション 前:マクファーソンストラット式独立懸架 コイルバネ 後:クロスビーム式独立懸架 板バネ 全長 セダン:3,885mm クーペ:4,140mm 全幅 セダン:1,465mm クーペ:1,495mm 全高 セダン:1,345mm クーペ:1,320mm ホイールベース 2,250mm 車両重量 セダン:885-895kg クーペ:895-900kg 後継 ホンダ・145 -自動車のスペック表- ホンダ・1300(せんさんびゃく)は、本田技研工業によって、1969年から1972年まで生産、販売されていた4ドアセダンおよび2ドアクーペ。 1300最大の特徴としては、「水冷と言えども、結局最後は空気で冷やす。ならば最初から空気で冷やすほうが効率が良い」という本田宗一郎の技術的信念(あるいは、頑固な思い込みとも言える)により、このクラスとしては、この時代でも既に珍しくなっていた空冷エンジンを用いていた事が挙げられる。 このエンジンは、オールアルミ製・直4SOHC8バルブ・クロスフローで、シングルキャブレター仕様で100PS/7,200rpm、4連キャブレター仕様は115PS/7,500rpmを発揮[1]、この最高出力は当時の1,300cc級エンジンとしては驚異的なもので、1,800 ~ 2,000cc並みであった。さらに当時のホンダ製エンジンにふさわしく、DOHCエンジンに匹敵する高回転設計を誇り、スムーズに吹け上がるエンジンでもあった。 最初で最後の採用となったDDACと呼ばれる冷却方式は、通常の空冷エンジンのシリンダーブロックやヘッドの中に、いわば水冷エンジンのウォータージャケットにあたる冷却風通路を備えることから「二重強制空冷」の名を持つ。空冷エンジンを持つホンダ・F1、RA302 からのレーシングテクノロジーのフィードバック[2]というのがセールスポイントであった。 また、開発にあたっては、騒音が大きい等の空冷の弱点の克服も目標とされ、DDAC方式の採用はそのためでもあった。 しかし、この高出力と、空冷の弱点の克服を可能とするために採用されたDDAC方式やドライサンプ機構のため、水冷エンジン以上に構造が複雑になり、重くなり、コストも嵩んだ。その為、簡単な構造で、軽く、コストも低くなるといった、空冷エンジン本来の長所は全く放棄される事となった。結局、エンジンに空冷を採用した理由は、「何が何でもエンジンを空冷にしたい」という宗一郎の意地以外に無く、技術的には全く本末転倒であったと言えよう。 このエンジンを採用した為、フロントまわりの重量がかなり重くなり、しかも発売当初のサスペンションスプリングとダンパーが乗り心地重視のソフトなもので、タイヤも同級他車並みの細いクロスプライタイヤであったことから、非常に強いアンダーステアや急激なタックイン、簡単に発生するジャッキアップ現象で「三輪走行」に陥るなど、危険な操縦特性を持つこととなった。この熟成のため、1968年の東京モーターショーでの発表直後に発売される予定が、翌1969年5月まで延期されたほどであった。市販モデルでもこの悪癖は完全には改善されておらず、CAR GRAPHIC 誌編集長で自動車評論家でもあった小林彰太郎は、ロードテスト中の1300の後席に同乗中に事故に遭い、左脚複雑骨折の重傷を負ったほどである。 その後に追加されたクーペやマイナーチェンジ後のモデルでは最高出力が引き下げられ(シングルキャブレター95PS/7,000rpm・4キャブレター110PS/7,300rpm、更に80PSのオートマチック版も追加された)、サスペンションも固められてタイヤも高速対応型になり、こうした特性は徐々に改善されて行ったが、それでも大き過ぎるエンジンのため、フロントエンジン・フロントドライブの割に芳しくない居住性、熱量不足のヒーター、大きい最小回転半径などの問題は解決されず、エンジンだけが突出したアンバランスさは消えなかった。 なお、1300系はPCD120.0mmという特殊な規格のホイールハブを採用しており、これは145はもとより初代シビック・初代アコードまで継承された。 もともと生産台数が多くない上、エンジンやオイルタンクにアルミ合金が多用されていたことから、金属回収業者によって積極的に潰されており、現存数は非常に少ない。 ケーヒンのCVキャブレターを4連装するクーペ9のエンジン 歴史 [編集] 1968年10月21日 報道関係者に公開。東京モーターショーにも参考出品。大きな反響を呼ぶ 1969年4月15日 ホンダ初の4ドアセダンとして5月下旬発売と記者発表。モーターショー出品車と比較してリアエンドが伸ばされ、重量配分改善の努力のあとが見られた。 シングルキャブモデルは「77」( Seventy Seven )、4連キャブモデルは「99」( Ninety Nine ) と呼ばれ、77のみとなる「スタンダード」のほか、それぞれに「デラックス」・「カスタム」・「S」があった。三重県鈴鹿工場渡し現金価格は「77 スタンダード」が48.8万円、最も高価な「99 カスタム」が71.0万円であった。また、98,000円高でクーラー(ホンダエアコン)、45,000円高でAT(ホンダマチック[3])も全車に装備可能と発表されたが、実際にはこの時点ではATは市販されなかった。 1970年1月、中・低回転域のトルクを重視するため、77シリーズは95PSに、99シリーズは110PSにそれぞれパワーダウンされ、同時にサスペンションセッティングも安定方向に固められた。 1970年3月、セダンをベースにした2ドアクーペを追加。ポンティアック風の二分割フロントグリルに丸型4灯式へッドライトの精悍な顔つきを持つスポーティーカーで、95PS仕様は「クーペ7」、110PS仕様は「クーペ9」と呼ばれた。内装も専用設計で、インストゥルメントパネルのセンター部分がドライバー向きにオフセットされている「フライト・コックピット」を特徴とした。CAR GRAPHIC 誌のロードテストでクーペ9Sに試乗した小林彰太郎は、1300はようやくその高性能エンジンにふさわしいボディとシャシーと得たと評した。 同時に、77 / クーペ7に3速AT車が追加される。AT仕様の77セダン / クーペ7は横長の扇形スピードメーターと2本スポークタイプのステアリングホイールを装備。エンジンは80PSにデチューンされていたが、当時のオートマチック車としてはそれでも俊足な部類であった。 1970年11月、セダンがマイナーチェンジされ、全車丸型2灯式へッドライトになる。フロント / リヤセクション及びインストルメンタルパネルを大幅に変更する大掛かりなマイナーチェンジとなる。同時に110PS仕様の99シリーズは廃止され、95PSの77シリーズのみとなった。 1971年6月、クーペがマイナーチェンジを受け、「ホンダクーペ○○ ( ○○はグレード名 ) 」と呼ばれるようになる。従来型の丸型4灯ヘッドライト車は「ダイナミックシリーズ」に編成され、「SL」・「GL」・「GT」などのグレード名が与えられ、セダンと同じフロントグリルを持つ「ゴールデンシリーズ」としてデラックスやカスタムが追加された。110PSの4連キャブレター仕様のグレードはダイナミックシリーズの「GTL」のみとなり、それ以外は95PS仕様となった。 1972年11月、水冷直4SOHC1,433ccエンジンの「ホンダ・145」に発展。1300系は生産中止となる。エンジン以外の変更がほとんど行われなかった145シリーズは、実質的には1300シリーズのマイナーチェンジといえるもので、1974年まで生産された。 脚注 [編集] ^ 市販開始直後(1969年12月まで)の数値 ^ 1300と基本的に同じ冷却方式を持つF1マシン、RA302が唐突に出現してから1300が市販開始されるまでに1年程しか経過していない点や、RA302が熟成不足で悲劇的な最期を遂げた事などから考えて、F1の技術をフィードバックして1300が開発されたと考えるよりも、1300のセールスプロモーションのために同じ冷却方式のF1マシンを急遽開発したと考える方がより自然であろう。 ^ 1300に用いられたATは、3速で自動変速するもので、機能としては他社の一般的なATと同じものであり、後の145やシビックに用いられた2速で自動変速しないもの(無段変速と称した)とは異なる。ただし、遊星ギアを用いないなど一般的なATと異なるホンダ独自の構造は両者に共通するもので、それ故に両者共に「ホンダマチック」を名乗っている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


H・TさんがC・ロナウドかR・メッシか、F・トーレスのハートを射止めるために、F1仕様の日本代表サッカー移民受け入れ政策?国際級サッカー選手と日本アナリスト連合女性のコンパを夢想する、おっさんの妄想日記でした。しかし、H・Tさんなら4540年経っても、このホンダ1300 9Sクーペに成れるといったら、怒りますか。

日本サッカー界のために、H・Tさんへのエントリーははずせない?って、もう来年ワールドカップ南アフリカ大会がやってくる。国際デビューは近い? それとも、年末のWCLでN局の反撃で

「蹴っ飛ばせー!」と、ヒッキーが歌うかな?

かなり、真面目に。

〇〇はじめ

ちゃんちゃん!

真央ちゃんおめでとう。団体戦3位だったけど、高得点すごい! バンクーバーでは、
荒川さんに続いて金メダル獲得してください。その節に持丸長者になり損ねていたら、

「HELP ME!」と保険を賭けてみる。(笑い)
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ハンカチ卒業世代からの恋文( [精神科医]

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 神宮球場の斎藤佑樹とマー君の稲尾化現象

 ハンカチ王子ブームは去り、神宮球場の初夏を思わす陽気につられて、関東地方生活三年目の小田急相模原大野駅から、相模原新宿行き急行に乗った。二年前の4月に引越してきて、最初にしたことは、乗車してきたクルマの売却と、あるLIVEのファンクラブ先行予約チケットの購入振込みだった。
 代々木上原で乗り換えまで、本を読み愛用になったウォークマン携帯でお気に入りを聴いていたら、すぐだ。地下鉄の千代田線に乗り、表参道で降りる。
 地下から地上に出ると、北向きなのに陽射しがまぶしい。4月11日の土曜日のことだ。
 一つ目の路地を通り、いつものように善光寺にお参りした。

十念。

南無阿弥陀仏を十度唱え、両親の戒名を口にした。
ついでに、奮発して線香もあげた。煙を厄除けに少し手で寄せた。

 オレの斎藤佑樹観戦の儀式だ。

 今日は初めて東大戦の観戦だった。それには、オレなりの意味づけがあった。WBC野球の押し付けがましい野球ファッショにうんざりしていたのだ。

趣味野球観戦。こういえるだけの下地はあった。子供のころ、オレは野球のグラブを買ってもらえる野球好き環境にはなかった。だけど、鉄腕稲尾の4連投はラジオで聴き、日本シリーズ杉浦の快投もラジオで聴いていた。また、GT戦の村山実対長嶋茂雄の天覧試合もラジオで聴いたことがあった。仁丹ガムの細長い野球チップのメンバーカードを一チーム集めたら、粗末なグラブやミットがもらえるので、ガキ大将の周りにべったん(めんこ)の市場もできていた。オレは小学生なのにオリオンズだったかな、の衆木(もろき)などという、文字を覚えたのはそのガムのせいだった。いまは立派な長居公園の一角は公営競馬場や競輪もあったのだが、それが取り壊され、ときは大阪にも、東京五輪の槌音が響き、長居公園は陸上競技場をメーンとした都市公園に変わろうとしていた。
 そのすみっこに少年野球のグラウンドがあり、オレはいつもひとりで野球少年を見つめていた。少年野球に入るメンバーはそこそこ裕福な子供で、近所にいても友達ではなかった。近所の遊び友達でもグラブを持っていたのはひとりぐらいだった。
 オレは野球は下手だったが、べったん(めんこは得意だった。小学校低学年のときから、近所の中野公設市場近くの路上では、ガキ大将の中学生を中心としたマーケットがあり、そこでべったんの勝負をしていた。オレはそのべったんの親玉になるカードにロウをつけ、ひとりで夜半に練習を積んだ。足の立ち位置、腰のかがめ具合、腕の振り上げ角度、手をふりおろすタイミングの強弱、練習では、何度も、てっこんといって、手のこぶし側を路上に直接ぶっつけて、擦り傷がたえなかった。それでも練習したのは、当時の肉屋の中学生のガキ大将にどうしても勝ちたかったからだった。小学校五年のときにその機会が来た。オレはそのマーケットで強い選手?として、自慢できるだけのべったんを一斗缶に溜め込んでいた、その全部をひと勝負に賭け、雌雄を決するときがきたのだ。

 オレはその日、親玉に細心の注意を払い、ロウを注意深く注ぎ、カード誌面を補強した。
大量のめんこは横倒しに並べられた。どのカードを抜くかを決め、いざ決戦だ。中野パンの前はちょっとした観衆で賑わった。ガキ大将は身体もでかく、表情も不良の感じで、いつもいばっていたので、一矢をむくいたかったのだった。思えば無鉄砲過ぎた。

 やがて、どこかの親が通報したのか、警官が現れガキ大将もろともオレたちは田辺警察署に連れて行かれ補導された。以後、そのあそび場は駒川町の針中野駅近くの小さな児童公園に移った。

 斎藤佑樹からこの思い出を書いたのは、実は伝えたい対象への擬似恋文の前書きなのです。
 
 神宮球場は昨年に改築され、名実ともに都心の野球場として国際大会をやっても遜色のない球場になった。座席のカーブのラインは美しい女性のラインをなぞり、遠景の高層ビルとのミスマッチの陽射しがどこまでも青く輝く。座席も青が基調だ。電光掲示板も見やすくなり、左右の相似形が美しい。オレは外野からのこの野球観戦を気にいっている。八倍ズームの三千円ほど奮発して買った双眼鏡を持ち、斎藤佑樹の練習投球から眺めるのがぜいたくな幸せ感を増幅させる。
 乱視がきつく、なかなか焦点調整をしても、像が二重になるのにはまいったが、遊びは楽しい。大学野球には高校野球にはない、伝統のリーグ戦があり、外野から先輩らしい人が応援団に呼応して、礼をしているのを見るのは、悪くない光景なんですね。

 アナリストへの恋文シリーズでもでっち挙げて、私の個人査察捜査でもしてみようかな。

 いや、神宮球場は裏も結構不思議な空間で、
あんな人がこんなところにいた。つまり、「キミたちがいてボクがいた」の舟木一夫の歌のメロディが出てくるところでもあるんですね。

拝啓 C様

あなたには数々の失礼をしております。昨日たまたま、桂枝雀さんの落語をYUチューブで見ていましたら、笑いころげて、思わず
「すつれいしました。ワーファ!」とひとりで盛り上がっていました。あなたにささげた恋文は、作文的にはラブが感じられないかもしれませんが、私なりには、残り少ない人生を賭けた思いつきだったんですけどね。

あの内容なら野球界は乗ってくると思ったんですけどね。もう随分日にちが経ったというのに、何の回投、いや回答もなくさびしい日々をすごしております。センバツ高校野球が過ぎても、なんのお返事もないので、がっかりでした。やっぱり、日本代表サッカーの盛り上げ計画の推進の方が将来の億万長者への近道かとも思って、

ゆりかもめ乗って、あっちの方の空気吸って、オレはまだ漂流していた方がいいのかな、と思ったのも確かです。だから、SPOLT月曜のHアナははずせない。マークしておかないと大変なことになる。いや、同じ局のMアナがどうというてるんやないのです。心模様なんか井上陽水さんの歌にあるように気まぐれですし、まして恋なんて、古からうたかた、陽炎のようになるのでしょうから、月日が経つと、その心も変わるというより、うつろい、不安ばかりが増え桜の花を見ても、あの木はなぜ咲かないのだろう。と、咲かなくなった木々に目を奪われるのは老いの証拠なのでしょう。

 でも、恋心はある。独身だ。金も欲しい。斎藤佑樹も見たい。あなたにさしあげたお手紙には、私の心情は十分に書いたつもりでしたが、こころを伝えることはむづかしい。金で解決できることは、金さえあれば簡単な契約なのに、いやがらせのように、あなたの局はK氏を解説者に起用しています。実に悲しい光景です。それが縁のなさ、ということなら、縁はないのでしょう。

 さて、斎藤佑樹は東大の新チームの力を極限にまで引き出し、見事に七回を完封しました。抑えの大石達也が投げるころには、私はスポーツ紙を広げ、明日に行われる桜花賞を買うべきかどうか、検討をしていました。あなたにささげた手紙に書いたことは実現できませんでしたが、できなかってもいいのです。どこかで、あなたとこの神宮球場の空間をひとときでも共有できたのなら、それは私にとっては、幸せなことですから。それで十分です。それ以上何を望んでも、いけない世界もあると言い聞かせる方が自分に忠実です。

 あなたは、魔法使いのように催眠術をかけてくるから、私は目をあわせないように細心の注意をしているのです。

 で、種証しをひとつ。私が斎藤佑樹を見に行けば、楽天ゴールデンイーグルスの田中将大は素晴らしい活躍をするに違いないとふんでおりましたところ、昨夜、たけしさんの『本当は怖い家庭の医学』を途中まで見て、CSに切り換えたら八回裏マー君はピンチでした。福浦にツーベースを打たれ同点かと思ったのですが、中継プレーが見事にはまり本塁アウト。九回の田中マー君は、素晴らしい投球でした。あんな球、中継でも見たことないという迫力と集中力ありました。
「斎藤佑樹! うかうかできなゃーで!!」
と思わすいいたくなる内容で2連続完投勝利。1失点。

「神様、仏様 稲生様二世」とノムさんが賞賛したそうですが、むべなるかなという感じでした。日本野球界、これでなくちゃね。甲子園球児がひっぱって、甲子園野球文化の親善輸出。これが私の高校野球野球世界化計画のアイデアでした。イスラエルとパレスチナ諸国が軍事を縮小し、平和のために高校野球を輸出し、甲子園球場の記念大会にパレスチナ枠やイスラエル枠を作り、招待するということも骨子にはありました。ソマリアの海賊対策の自衛隊の護衛艦派遣の様子を流した、報道ステーションのディレクターの護送船団方式の映像でメディア界は皮肉を流し、私を怒らしたことを感じてもらっているかどうか、疑問ですね。あなた個人を責めるつもりは毛頭ありません、あなたの前にでればファンとしては、デレーっとなってしまうわけですからね、だから視線合わさない。催眠術かけられるの怖いのです。

軽々しく愛を語ってほしくない。皆様のNHKの連ドラ見ないのも、そのあさはかさが見えてしまいからです。

 愛の前に恋がある。五月みどりになりそうな水曜日の朝、昨日、都はるみさんのコンサート切符買ったら、早速郵便受けには、当てにしていた収入の遅延はがきが投函されてきました。悲しい。現実はかくもきびしいものなんですね。枝雀師匠の笑いは「緊張の緩和」なら、恋はきまぐれ。チャンチャン!

こんなんで、どうかしら。えみチャンネルさん、聞いてるうっっ。


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東京タワーの下 [精神科医]

小雨降る、東京タワーを前に

幻想に思いを馳せる。

欅坂の青い色に

特別な想いを込める、


男はさらに、寡黙になる。

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ドン・キホーテ流、ラ・マンチャの男型 統合失調症の妄想日記 [精神科医]

藤川球児おめでとう100セーブと こんなはずではない? 阪神タイガース

10年前、キミが鳴尾浜でデビューしたとき、オレの記憶が正しければ、広島カープ戦だった。同じ年に入団の新井(現タイガース)は二軍にいた。キミはその新井に右と左に2本塁打を浴び(2本目は新井じゃなかったかもしれない)5回4失点だったかなで敗戦投手になったが、細い身体ながらピッチングの妙を知る潜在能力の高さに驚いたものだった。

キミは入団当時数年はカーブやスラーブ、チェンジアップを要所で投げ、どちらかというと速球で力勝負する投手ではなかった。しかし、二軍では体力に問題があったようだが、常に高い能力を発揮していた。

2003年、一軍に抜擢されたとき、当時のH監督から二死満塁ツーストライクという場面で吉野からリリーフを告げられた。

 フォークかチェンジアップあるいは、カーブででもタイミングをはずせば、すむ場面だったが、逆転だったか記憶が定かではないが、満塁本塁打を浴び、ジャイアンツにとんでもない屈辱を味わった。

その年、キミは優勝後にプロ入り初勝利したものの、一軍の優勝には貢献できなかった。しかし、二軍との優勝決定戦ではアープを6回2失点に抑え、勝利に貢献した。

98年度のキミの入団発表記者会見の言葉がいま、オレの頭の片隅からよみがえった。

━10年後の自分を想像できますか?
 
キミは確か
「いつも優勝争いに加わって自分がその輪の真ん中にいたいです」というようなことを言っていた。

思えば、高校野球では、二年時に出場した、兄弟バッテリーという印象が薄くて、隠れ松坂ファンのオレは社会人から入団したホークスのSや松坂と決勝で投げ合ったK(マリーンズ)や、いまはアナウンサーのPLのKなどの方が印象に残っていたので、こんな細い身体で大丈夫かと、思ったものだった。

しかし、キミは2004年の夏見事に変身した。鳴尾浜の一塁側スタンドからブルペンを見ていたとき、オレの目は点になった。
「タイガースにこんないいフォームで投げる投手おったかな?」

それが、キミだった。その後、いろいろ報道されたが、投手コーチYとの合作? 

当時は二段モーションではあったが、素人のオレが遠めに見ても、
軸足に股関節を乗せるタイミングや、間合い、投げ下ろす腕の振りが素晴らしく輝いて見えた。

二度ほど二軍で登板後、台風の福岡遠征の雁の巣ホークス戦ではさんざんな内容だったが、
体幹を鍛えたキミは同じ松坂世代の久保田の後を堂々と追い、以後一軍に定着した。

それから、抑えに転向してわすか二年半の快挙!

歴代でも100セーブはたった21人しかいないというではないか。オレは昨夜だけは、藤川ファンとしてタイガースファンとして、タイガースは勝たなければならない、と思った。ほんでもって、BSやCSにチャンネルを変更し、ついでに地デジでタイムショックの優勝占い? やCNNの香港キャスターのA.Rを横目に見ながら、応援してみた。

Gの威力は勢いがあり、止まらない。だから、タイブレークでいったら、撃沈は目に見えている気がした。
「カープよ!!なんとかせい!」と応援して見た。


DSC0000.JPG

一昨日Mおばさんがあんなとこに現れ、その他、あんな方もいて、オレはかなり動揺した。あんなとこで、こんなこと

「斎藤さーん!!遠いところ、二度も起こしいただいてありがとうございます!」とか、 あんな方に 「カード? カードはつかえませんので、(書類を)おあずかりしておきますから、 近くのコンビニででもご用意してください」

というアドリブかますMおばさんがオレは今も好きだ。オレのアキレス腱だ。実は前日に夢見ていた。
Mおばさんの夢。それで、朝すごく疲れていた。

だから小田急相模原のサウザンロードのジョナサンでお茶したいのだ。(わかる人にはわかる)

しかも、タイムショックで「落ちたタレントが、”おとうさ----ん!”」と叫んでいる。
やっぱりそうだったのか。こういう絡み手は本当に疲れる。

アナショックでIHショックでもある。

ともあれ、オレはファンとして最低限の役目はしたつもりだ。甲子園でTG戦がどうなるかは知らない。オレはいま、サッカーの方が気になる。Hステはサッカー棄民政策らしいが、オレの中では対立軸ではなく、野球はSY(早稲田)を見たい、というのが正直なところだ。

ついでに、気になるドラゴンズですが、選手は自分の能力を何で信じないのか不思議大発見状態や、
ということを野球ファンとして、付け加えておきます。

それからバファローズよ!! 

「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ!」
(とほほ…)

わかる人にはわかる。小田急相模原の某所でお会いしました。????

「ライオンズよ!!」

相模大野の旧SEIBUの建物が再開発を待っている!!

CS再考をファンとしてはお願いしますだ。
ヒッキーが田んぼの中で新ファッションでかかし、だった次の日に。


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かなり恥ずかしい 公開恋文? 仕様 日本サッカー強化丸秘作戦 [精神科医]

マンデー・フットボール


SPOLT

H.T 様

昨夜、味の素スタジアム(蹴球場)から帰ってから、疲れていましたが、少し、他局の某
「YFC」を途中から見ました。

2年ほど前はワールドカップ前には結構見ていたのですが、年寄りなので、
11時ぐらいになると眠くなりますので、あまり見なくなりました。

きっかけは、ひとつではありませんが、スポーツバラエティ番組も含めて、Yさんのキャラクターが新鮮な感じがして、こんなサッカー番組の作り方もあるんやな、と、感じたものでした。しかし、ワールドカップ惨敗以後は、「何だ、予選リーグで負けたやないか」とがっかりしたものです。

その後、たまに見たら、担当女子アナMさんも冒頭で「マグノアウベス!」と一瞬の顔ギャグやったりしており、YFCがサッカー選手御用達バラエティに感じて、見なくなりました。今回のオリンピック関連も見ておりません。しかし、番組を批判しようという、意図ではありません。私はスポーツ報道サッカーを見たいだけです。

ところで、オシム監督が新監督になり、新しい采配と選手招請能力、チーム力強化に新鮮さを覚え、期待しておりましたが、病気で倒れられ、実際の監督復帰は難しい状況になったのは、本当に残念でした。

急遽、後任に岡田監督が就任され、二次予選を無事勝ち上がり、ようやく、最終予選を迎えたわけですが、強くなりつつあるらしい、他国チームに対して、あまり強くなっていないらしい日本代表Aチームに、ようやく海外選手の招集もかかり9月6日のバーレーン戦を迎えることになりました。

そこで感じましたのは、私が五輪サッカーで日本を応援するのに、友達がいないので、たまたま整形外科に通っていた、近所にナイジェリアレストランがあったので、一緒に応援して、負けられないナイジェリア戦をアフリカンと観戦したのでしたが、実に楽しい経験でした。

フルぼけたテレビ一台と、控え室の小さなアナログテレビでの観戦でしたが、既にアメリカに負けており、後のない五輪代表日本は、前半こそ見せ場を作りましたが、後半に入り、相手の個人技とフィジカルの差を見せ付けられて、あっという間に2失点。豊田投入で1点返したものの、勝ち点0の敗戦はご存知の通りです。

その後決勝トーナメントに進んだナイジェリアは見違えるようなチーム力となり、イタリアを倒したベルギーを圧倒、決勝に進んだのは記憶に新しいところです。
さらに、決勝では、ブラジルをフルボッコ
したアルゼンチンと攻防の早さに目を離せない攻守の切り替えの連続で1点を争う素晴らしい試合をしました。1996年アトランタ以来だったかな、の優勝(金メダル)もあろうかという内容でした。

ワールドカップでもいつも言われることですが、グループリーグを着実に勝ち上がり、決勝トーナメントでベストの仕上げにするという、当たり前の結果が出た、両チームが勝ちあがり、アルゼンチンはメッシ、アグエロ、オーバーエージのリケルメなどの活躍で五輪連覇を果たしました。

翻って、私がA代表日本チームに思いをはせて頭によぎったのは、私の尊敬する故・江上波夫著作集(平凡社7巻)の冒頭にあった

「日本人とは何か?」という小論でした。 もし、興味がおありでしたら、図書館で取り寄せてお読みください。 「日本人の多様性と統一性」(1980年、天城シンポジウム「日本人とは何か」昭和五十四年九月、日本アイ・ビー・エム/『無限大』四十七号、昭和五十五年一月~三月) 要約する時間と文才はありませんが、結論的には、この論文が発表された時点では、狩猟漁猟型の人たちが、海岸、島嶼では今日まで続いていたこと。また、東北ではマタギなど熊の狩猟を続けて来た人もいた。また、東北人は性格的には分裂型であり、優れて思想家や宗教家、芸術性を生み出す場合が多い。農耕民民型は実直で最近まで、日本経済を背負ってきた人たち。牧畜騎馬民タイプは政治家になったり、商売で成功したり、文化面で頭角を現した者が多い。これらの人たちが重なりあって、 「例えば江戸時代のように、アジアでは珍しい高度な近世都市文明を創り上げることにもなったのではないかと思われます。」(50頁)

なぜ、このような小論を思い出したのかといいますと、

「日本人とは何か」という近世、現在の歴史を包み込んだことが、問われることと、いわゆる帰化(日本国籍取得)による日本人としての人たちの文化的影響をどう重ね合わせるか、という命題に突き当たるようです。

つまり、「○○ジャパン」の表現はマーケティングや広報手法としては、ありましょうが、
オシム監督も提示していたように、
岡田監督がどういう代表チームを作りたいかが、いま、問われているわけですし、岡田監督のいうコンセプトという広告用語に、何が言われているのでしょうね。


現実は現在の代表は海外召集もあり編成されましたが、長期プランで考えると、何人かの優秀な才能に帰化してもらうしかないのが、飛躍のための第一歩でしょうね。メキシコのようにいい意味で混血して、結束するまでには、時間がかかりますし、手っ取り早い方法ではありません。


しかし、今回のワールドカップの対戦相手はカタール(71位)、ですが、アフリカン選手の受け入れでチーム強化、バーレーン(67位)もアフリカ選手の帰化を受け入れチーム力を強化しています。ウズベキスタン(55位)、オーストラリア(38位)とFIFAランキングは日本(35位)より下ですが、
このグループで勝ち上がるのは、簡単ではないのは、私のようなミーハーなサッカーファンでも明らかです。

ですからね、ここからは個人的願望になるのですが、気になるクリスティアーノ・ロナウド(MU)の情報とチャンピオンリーグ情報はフジの得意分野ですから、どんどん流してください。リーガは当面、WOWOWで二ヶ月は見ます。後は境遇次第で不明?

日本A代表には中村俊選手も間にあうようですし、どんな形で点を取るのかに、常にチェックをお願いしたいのです。

ところで、『万延元年のフットボール』(大江健三郎・32歳)の単語が突然、頭に浮かびましてね。

内容と直接関係はありませんが、とにかく、最終予選を勝ち抜き、来るべき2010年のワールドカップ南アフリカ大会では、本当の力で予選を勝ち、決勝トーナメントの1勝などという魅力あるチームができれば、いいな、というのが私の願望です。

そのためには、H,Tさんがサッカー担当アナウンサーだけではなく、世界中のサッカーアナリストとして、メッシ、C・ロナウド、F・トレースなどを魅了してですね、彼らが、日本国籍を取得したい、あなたと国際結婚になったら、面白いと思いませんか。 もちろん、今の段階では統合失調症の私の「そんな馬鹿な!」という話です。 しかし、H.Tさんの魅力がJリーガーだけではなくて、海外クラブにも及んでですね、 UEFAでですね、優勝したスペインのグイサのように、弓を引くポーズでプロポーズされたら、本人たちは、日本でやりたい、というかも知れない?(ん、なァわけないですかね) しかし、現実になったらですよ、Jリーグ人気も劇的に代わるじゃないでしょうか。 そう「愛」はJリーグを変える。日本代表サッカーを救う。

その気になればH.Tさんならなれる、と書いたからといって、怒らないでください。可能性はあるのですから。

そうなれば、世界中でもっとも有名なアナウンサーになるかも知れません。

そのためには、何が何でも予選をまず勝ち抜くことが大前提ですから、日本代表戦応援報道もよろしく、といいたいわけですね。
2006の惨敗が身に染みてますからね。世界トップのFWが絶対いると思うのです。

あるネットの書き込みに

中山のメンタル
松井の突破力
巻の高さ
中村俊の正確性
中田英の視野
カズのスター性

の選手発掘育成と書いてありました。

さしあたり、C・ロナウドが当てはまりますね。

「Number」plusのEURO2008特集にこんな記事がありました。

「左右両足の強烈なシュートやヘディングでゴールを決めるだけでなく、ヒールキックやラボーナ、ノールックパスなどの演出していたが、今シーズンは強力な武器を新たに身につけることに成功しる。《無回転シュート》だ」

志を大きく、あなたならできるはずです。


期待しております。そこんとこよろしくね。

失礼しました。


数詞はじめ



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