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公開恋文仕様 40年前のホンダ1300 9Sが輝いた西日の焼け具合? [精神科医]

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SPORT H・T様

かつて、工業高校に通っていたオレは、自分が工業高校に入学したことが間違いだったことを痛感したものだった。機械科というのでいろいろな実習があった。溶接の実習。危険物取り扱い実習。旋盤による、ノギスなどの製作。キューポラによる、鋳物実習。ねじ切り実習。さまざまな実習の実技採点がいつも仮に松竹梅でランクつけするなら、梅だった。

早い話、不器用だったのでガス溶接実習では、何回もガス火を不完全燃焼させ、ガス欠になってガス自殺に仲間を追い込んだ。アーク溶接つまり、電気溶接したら、肉盛りが均一にならずに、無駄に溶接棒を消費して、先生を嘆きの奈落に落とした。
理屈はそこそこ覚えるのだが、もともとあの機械工場や鋳物実習の工場の匂いが苦手なので、不器用が増幅され、起用にこなす同級生にも、馬鹿にされていた。初めて、キューポラのある鋳物実習工場で砂型から鋳型を作り、キューポラから鋳物用のアルミを流したら、鋳物の型枠の左右がまちがっていたために、おしゃかになった。鋳造したバリを取る作業をする以前の失敗だった。

つまり最中の皮ならずれようがないが、左右均一でないモノを鋳造するには、鯛焼き器のように、上下は空間が作りたい鯛の形になっていなければならないのに、オレは型枠そのものの製作が同級生より遅れたために、焦り、左右の型枠を間違って仕込み、その鋳型に流し込んだアルミは、無残な残骸となってしまった。その形は知恵の輪を大きくしたような金具だったので、

「お前は機械には向いていないな。あかんわ」

以来、実習の職人上がりの先生に、こいつには教え甲斐がないと、諦めさせた。

そこで、オレは二年になり、図書部と原動機クラブに入った。せめて、クルマの運転ぐらい覚えておきたい、というささやかな先生への抵抗だった。鋳物の実習室と違って、原動機クラブは、先輩から寄贈された、ポンチャックなどのアメ車が置いてあった。また、運転実習用のクルマも先輩で生まれながらの整備技師のような部長がエンジン分解から、ピストンなどの部品をすべて、分解しなおし、整備用オイルで磨き、組み立てるという、四気筒エンジンの分解整備の補助作業を他の部員と手伝ったときは感動的だった。オイル漏れを起こすガスケットを新しいものに取替え、点火プラグも新しくし、エンジンをふたたびクルマに取るつける作業に及ぶと、その先輩の腕は魔法のように見えたものだった。ダイナモの補助として、クルマの前からクランク棒でエンジンを回すと、ブルブルドドーっとエンジン音がすると、先輩部長は神々しく見えたものだった。キャブレター、ファンベルト、エンジンオイル回り、ブレーキ回りも当然ながら、部員がすべて整備をやる。その上級生は孤軍奮闘していた。当時でも、バイクで通う生徒も多く、金持ちや町工場の息子はクルマの運転ができていた。

オレは入学してすぐに入った軟式野球部は身体を壊し三か月で辞めていた。二年の秋は東京オリンピックイヤーで、勉強より、オリンピックに熱中した。原動機クラブでは、雑用をすれば、運転実習させてもらえるという、特典があった。部費はかかるが、アルバイトでナントカなった。同級生部員には、細かいことにこだわるOや字がうまく、喧嘩ばやくて、プロレス雑誌を愛読するKなどがいた、オレも短気な方なので、三人はよくもめた。
あるとき、Oは部長を怒らし、温和な部長にぼこぼこにされたことがあった。部長はプロの腕を持っていたから、オレたちに与えた課題が全然できていないと、当然、注意していた。

言われていることはわかるのだが、技術が伴なわなかった。さて、クルマの運転する段になって、エンジントラブルがあると、部長が怒るのは、当然だった。限られた予算で部品を調達し、運転実習で後輩を入れたのに、その後輩が頼りない。部長の絶望感は大きかったと、思う。

オレは運転実習も嫌いだった。
近所の夜間高校生が兄貴分だったので、その人についてI高校へ行き、実習運転させてもらったが、クラッチはすべらすし、蛇行させるので、「お前は運転やらせん!」と、以後は雑用係になった。
だから、オレは「運転するか?」と部長に言われるのを避けていた。エンジンかけるクランク回しはうまかっただけだ。大きなアメ車など乗ること自体、考えられなかった。左ハンドルだし。座席に座るだけで十分だった。同級生部員はそこそこ運転はできたが、トラブル直しは苦手だった。分解すればするほど、何をどこにどう配置すればいいのか混乱した。特にキャブレター回りのトラブルはやっかいだった。

ちなみに、いまだからいうが、オレは義兄が軽四輪を乗ってきたクルマに、内緒で運転練習したことがあり、間が悪いことにT警察所近くまできたときに、パトカーが前におり、動揺して、蛇行運転したのを、止められ、サイレンまで鳴らされて、補導されたことがあった。しかし、その部長が卒業すると、なぜか、自分が部長にならされた。オレはエンジンやクルマの整備より、部品のスケッチや展示のテクニックを他の部員に認められたのだった。本来、無免許で補導されたのだから、停学になってもおかしくなかったのだが、他に補導歴は中学以後はなかったので、書類送検と略式裁判で許されたのだった。したがって、学校は休まずに済んだ。

で、クルマについては、以後オレが部長のときは、自分は運転しないことで下級生をごまかした。同級生は知っていたが、そのころは、ちゃんと整備して動くクルマがなく、いたずらに、部室でオイルまみれになるのが放課後の日課だった。

最近、オレのアパートの近所にいつもカバーがかかったクルマがあった。
そのお家の前をいつも通っていたのだが、そのクルマの主がたまたま、フロントカバーを開け、エンジン回りをピカピカに磨いていた。オレはあまりにも珍しいクルマなので、立ち止まって見とれた。

「知ってるかい。4540年前の 70年型のホンダクーペだよ!」
「もう、部品ないからね。ガスケットなどもないので、オイル漏れには注意しないといけないけどさ。いまもよく走るよ! 空冷4気筒だからさ、ラジエターがないだろう。冷却ファンはエンジンルームの横に大きなのがついてるんだよ」

その老人の自慢のクルマは4540年前のホンダ・1300クーペ9Sだった。2ドア。直列四気筒4キャブ仕様で、空冷のフィンはフロントの横で羽を広げるように西日に光った。4キャブのキャップは高価な磁器のように磨かれ、別世界を主張していた。クラッチ板はエンジンを下ろさずに、フロントから整備できるという。

「この前のオーストラリアのF1見たかい!」
「ホンダの撤退は残念ですね」
「でも、エンジン以外は新しいチームに提供してるだろう。この次はマレーシアで次が中国(上海)だったかな!」
「F1みておられるのですか?」
「うーーん。フジにもよく通ったよ!」





クーペ9 S 製造期間 1969年-1972年 乗車定員 5名 ボディタイプ 4ドア セダン・2ドア クーペ エンジン DDAC(空冷) 直4 SOHC 1,296cc 4キャブ仕様:110PS/7,300rpm 11.5kg・m/5,000rpm 1キャブ仕様:95PS/7,000rpm 10.5kg・m/4,000rpm AT仕様:80PS/6,500rpm 10.2kg・m/4,000rpm 変速機 4速MT・3速AT 駆動方式 FF サスペンション 前:マクファーソンストラット式独立懸架 コイルバネ 後:クロスビーム式独立懸架 板バネ 全長 セダン:3,885mm クーペ:4,140mm 全幅 セダン:1,465mm クーペ:1,495mm 全高 セダン:1,345mm クーペ:1,320mm ホイールベース 2,250mm 車両重量 セダン:885-895kg クーペ:895-900kg 後継 ホンダ・145 -自動車のスペック表- ホンダ・1300(せんさんびゃく)は、本田技研工業によって、1969年から1972年まで生産、販売されていた4ドアセダンおよび2ドアクーペ。 1300最大の特徴としては、「水冷と言えども、結局最後は空気で冷やす。ならば最初から空気で冷やすほうが効率が良い」という本田宗一郎の技術的信念(あるいは、頑固な思い込みとも言える)により、このクラスとしては、この時代でも既に珍しくなっていた空冷エンジンを用いていた事が挙げられる。 このエンジンは、オールアルミ製・直4SOHC8バルブ・クロスフローで、シングルキャブレター仕様で100PS/7,200rpm、4連キャブレター仕様は115PS/7,500rpmを発揮[1]、この最高出力は当時の1,300cc級エンジンとしては驚異的なもので、1,800 ~ 2,000cc並みであった。さらに当時のホンダ製エンジンにふさわしく、DOHCエンジンに匹敵する高回転設計を誇り、スムーズに吹け上がるエンジンでもあった。 最初で最後の採用となったDDACと呼ばれる冷却方式は、通常の空冷エンジンのシリンダーブロックやヘッドの中に、いわば水冷エンジンのウォータージャケットにあたる冷却風通路を備えることから「二重強制空冷」の名を持つ。空冷エンジンを持つホンダ・F1、RA302 からのレーシングテクノロジーのフィードバック[2]というのがセールスポイントであった。 また、開発にあたっては、騒音が大きい等の空冷の弱点の克服も目標とされ、DDAC方式の採用はそのためでもあった。 しかし、この高出力と、空冷の弱点の克服を可能とするために採用されたDDAC方式やドライサンプ機構のため、水冷エンジン以上に構造が複雑になり、重くなり、コストも嵩んだ。その為、簡単な構造で、軽く、コストも低くなるといった、空冷エンジン本来の長所は全く放棄される事となった。結局、エンジンに空冷を採用した理由は、「何が何でもエンジンを空冷にしたい」という宗一郎の意地以外に無く、技術的には全く本末転倒であったと言えよう。 このエンジンを採用した為、フロントまわりの重量がかなり重くなり、しかも発売当初のサスペンションスプリングとダンパーが乗り心地重視のソフトなもので、タイヤも同級他車並みの細いクロスプライタイヤであったことから、非常に強いアンダーステアや急激なタックイン、簡単に発生するジャッキアップ現象で「三輪走行」に陥るなど、危険な操縦特性を持つこととなった。この熟成のため、1968年の東京モーターショーでの発表直後に発売される予定が、翌1969年5月まで延期されたほどであった。市販モデルでもこの悪癖は完全には改善されておらず、CAR GRAPHIC 誌編集長で自動車評論家でもあった小林彰太郎は、ロードテスト中の1300の後席に同乗中に事故に遭い、左脚複雑骨折の重傷を負ったほどである。 その後に追加されたクーペやマイナーチェンジ後のモデルでは最高出力が引き下げられ(シングルキャブレター95PS/7,000rpm・4キャブレター110PS/7,300rpm、更に80PSのオートマチック版も追加された)、サスペンションも固められてタイヤも高速対応型になり、こうした特性は徐々に改善されて行ったが、それでも大き過ぎるエンジンのため、フロントエンジン・フロントドライブの割に芳しくない居住性、熱量不足のヒーター、大きい最小回転半径などの問題は解決されず、エンジンだけが突出したアンバランスさは消えなかった。 なお、1300系はPCD120.0mmという特殊な規格のホイールハブを採用しており、これは145はもとより初代シビック・初代アコードまで継承された。 もともと生産台数が多くない上、エンジンやオイルタンクにアルミ合金が多用されていたことから、金属回収業者によって積極的に潰されており、現存数は非常に少ない。 ケーヒンのCVキャブレターを4連装するクーペ9のエンジン 歴史 [編集] 1968年10月21日 報道関係者に公開。東京モーターショーにも参考出品。大きな反響を呼ぶ 1969年4月15日 ホンダ初の4ドアセダンとして5月下旬発売と記者発表。モーターショー出品車と比較してリアエンドが伸ばされ、重量配分改善の努力のあとが見られた。 シングルキャブモデルは「77」( Seventy Seven )、4連キャブモデルは「99」( Ninety Nine ) と呼ばれ、77のみとなる「スタンダード」のほか、それぞれに「デラックス」・「カスタム」・「S」があった。三重県鈴鹿工場渡し現金価格は「77 スタンダード」が48.8万円、最も高価な「99 カスタム」が71.0万円であった。また、98,000円高でクーラー(ホンダエアコン)、45,000円高でAT(ホンダマチック[3])も全車に装備可能と発表されたが、実際にはこの時点ではATは市販されなかった。 1970年1月、中・低回転域のトルクを重視するため、77シリーズは95PSに、99シリーズは110PSにそれぞれパワーダウンされ、同時にサスペンションセッティングも安定方向に固められた。 1970年3月、セダンをベースにした2ドアクーペを追加。ポンティアック風の二分割フロントグリルに丸型4灯式へッドライトの精悍な顔つきを持つスポーティーカーで、95PS仕様は「クーペ7」、110PS仕様は「クーペ9」と呼ばれた。内装も専用設計で、インストゥルメントパネルのセンター部分がドライバー向きにオフセットされている「フライト・コックピット」を特徴とした。CAR GRAPHIC 誌のロードテストでクーペ9Sに試乗した小林彰太郎は、1300はようやくその高性能エンジンにふさわしいボディとシャシーと得たと評した。 同時に、77 / クーペ7に3速AT車が追加される。AT仕様の77セダン / クーペ7は横長の扇形スピードメーターと2本スポークタイプのステアリングホイールを装備。エンジンは80PSにデチューンされていたが、当時のオートマチック車としてはそれでも俊足な部類であった。 1970年11月、セダンがマイナーチェンジされ、全車丸型2灯式へッドライトになる。フロント / リヤセクション及びインストルメンタルパネルを大幅に変更する大掛かりなマイナーチェンジとなる。同時に110PS仕様の99シリーズは廃止され、95PSの77シリーズのみとなった。 1971年6月、クーペがマイナーチェンジを受け、「ホンダクーペ○○ ( ○○はグレード名 ) 」と呼ばれるようになる。従来型の丸型4灯ヘッドライト車は「ダイナミックシリーズ」に編成され、「SL」・「GL」・「GT」などのグレード名が与えられ、セダンと同じフロントグリルを持つ「ゴールデンシリーズ」としてデラックスやカスタムが追加された。110PSの4連キャブレター仕様のグレードはダイナミックシリーズの「GTL」のみとなり、それ以外は95PS仕様となった。 1972年11月、水冷直4SOHC1,433ccエンジンの「ホンダ・145」に発展。1300系は生産中止となる。エンジン以外の変更がほとんど行われなかった145シリーズは、実質的には1300シリーズのマイナーチェンジといえるもので、1974年まで生産された。 脚注 [編集] ^ 市販開始直後(1969年12月まで)の数値 ^ 1300と基本的に同じ冷却方式を持つF1マシン、RA302が唐突に出現してから1300が市販開始されるまでに1年程しか経過していない点や、RA302が熟成不足で悲劇的な最期を遂げた事などから考えて、F1の技術をフィードバックして1300が開発されたと考えるよりも、1300のセールスプロモーションのために同じ冷却方式のF1マシンを急遽開発したと考える方がより自然であろう。 ^ 1300に用いられたATは、3速で自動変速するもので、機能としては他社の一般的なATと同じものであり、後の145やシビックに用いられた2速で自動変速しないもの(無段変速と称した)とは異なる。ただし、遊星ギアを用いないなど一般的なATと異なるホンダ独自の構造は両者に共通するもので、それ故に両者共に「ホンダマチック」を名乗っている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


H・TさんがC・ロナウドかR・メッシか、F・トーレスのハートを射止めるために、F1仕様の日本代表サッカー移民受け入れ政策?国際級サッカー選手と日本アナリスト連合女性のコンパを夢想する、おっさんの妄想日記でした。しかし、H・Tさんなら4540年経っても、このホンダ1300 9Sクーペに成れるといったら、怒りますか。

日本サッカー界のために、H・Tさんへのエントリーははずせない?って、もう来年ワールドカップ南アフリカ大会がやってくる。国際デビューは近い? それとも、年末のWCLでN局の反撃で

「蹴っ飛ばせー!」と、ヒッキーが歌うかな?

かなり、真面目に。

〇〇はじめ

ちゃんちゃん!

真央ちゃんおめでとう。団体戦3位だったけど、高得点すごい! バンクーバーでは、
荒川さんに続いて金メダル獲得してください。その節に持丸長者になり損ねていたら、

「HELP ME!」と保険を賭けてみる。(笑い)
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