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『持丸長者』(広瀬隆・国家狂乱篇)に何を学ぶか?(その2) [政治、経済]

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http://torayosa.blog.so-net.ne.jp/2009-04-25(その1)

国家狂乱の歴史に何を学ぶか

私の手元に中国側、つまり加害者(被害者側の中国の視点)記録を描き出した『中国の旅』(すすさわ書店・本多勝一)がある。一九三七年七月七日蘆溝橋(中国でいう七・七事変)で日中全面戦争が始まる。

さて、 『持丸長者』(国家狂乱篇・広瀬隆)にはどうかかれているのか、408ページ2行目から引用しよう。

この蘆溝橋事件で、日本と中国のいずれかが先に発砲したかは、まったく問題外である。日本軍が当時この北平(ペーキン)と呼ばれた中国の領土・北京一帯に数千人部隊を駐留させていること自体、あってはならないことであった。満州の租借地・関東州は、日露戦争でロシアに勝利して中国から貸し与えられ、日本が統治権を持つ土地であると百歩譲っても、北京は満州租借地とまったく、無関係で中国領土であった。一九二八年二月に蒋介石が中国軍事と政治を掌握し、政権が首都を南京に移すまで、中国の首都は、ここ北京であった。そもそもここに日本の支那駐屯軍がいたのは、先に述べたように、ロシア陸軍大臣クロパトキンによるアムール河の流血事件をはじめとする中国全土での民衆大量殺戮に乗じて、一九〇一年九月七日に長州の桂太郎内閣がロシア欧米十ヶ国と共に、「義和団事件最終議定書」を中国に強要し、北京公使館区に各国の軍隊を駐留することを無理やり承認させたものにすぎなかった。中国の民衆大虐殺した結果の、列強の軍事侵略だった。  日本の駐留権をたてに、それからの三十年間、日本公使館を守るという口先と逆に、欧米さえおこなわないほど、租借地・関東州の狭い地域を出て、満州事変~満州国建国を口実に満州を支配し、さらに満州から、日本人が北支(北支那・華北)と呼ぶ中国北部地帯へ露骨な侵略の歩を進めてきた。陸軍が「華北の鉄・石炭・綿花などの資源を奪う」ことを堂々と戦略として掲げ、前年まで次々と支那駐屯軍に増強部隊を送りこんできたのだ。しかも日本国内では、日中戦争間近に迫っていることが論じられていたのだから、蘆溝橋における戦端が、日本による戦争挑発と謀略でなければ、ほかにいかなる語彙の日本語もない。

知りたくない事実が並ぶ。ここに、『中国の旅』(本多勝一著・『朝日新聞』)が当時の『朝日新聞』に(一九七一年の六月から40日間取材し、同年八月から4部に分けてルポルタージュを発表)、の単行本が並べば、いわゆる右翼といわれる人たちから、発狂すべき反応が見られた。

以下、さらに『持丸長者』(国家狂乱篇)を見よう。

支那という呼び方は、もともとは英語のチャイナ(China)の呼称と同じで、特にフランス語でchの発音は英語のsまたはshに相当するので、シーヌと発音され、「シナ」を漢字にしたのが支那である。インドと中国のあいだにある地域はインドシナと呼ばれ、現在のベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーにあたる。しかし、日本が満州国を建国してゆく当時、満州を切り離した中国の大陸部を呼ぶときに日本人が戦略的に使った地名が支那であったため、日本の侵略用語の意味を持つ。 蘆溝橋事件を、日本人は北支事変・支那事変・日華事変と色々に呼び換え、日中戦争とは呼ばなかった。アメリカから石油など膨大な軍需原料を輸入している日本が戦争を起こせば、戦争当事国への軍需品輸出を禁じたアメリカの中立法にひっかかって軍需産業が維持できなくなるため、「これは一時的な地域紛争であって、戦争ではない」と、国際社会に向けて事態を糊塗するために創り出した言葉が事変である。相手国の首都を爆撃しのとながら、日本の統治者は驚くべき無神経な人種であった。 かくして、池田成彬と結城豊太郎の軍需融資をもとに、関東軍参謀長・東條英樹、第五師団長・板垣征四郎たちが激戦の指揮を執り、上海で両軍が激戦を展開し、南京に日本軍が攻め入ると、年末十二月十二日に南京を陥落し、松井石根(いわね)の指揮下で南京大虐殺がおこなわれた。(以下略)

当時の内閣は「無能ため『何もせんじゅろう内閣』と呼ばれた林銑十郎内閣」のあと、近衛文麿になっていた。
林銑十郎は、近衛内閣警視総監・斎藤樹(いつき)と子供同士が結婚して閨閥形成。斎藤は鉄道大臣・小川平吉の娘婿だった。林の娘婿に北陸銀行頭取。中田清兵衛であり、先代清兵衛は一九二六年の長者番付富山三位であり、一族には満鉄の株主がいた。
近衛文麿公爵は蘆溝橋事件の年に娘が首相秘書官の熊本藩細川護貞と結婚し、後の細川護煕だったということだ。
近衛家は江戸時代酒造業で摂津伊丹の領主であり、酒造資金を小西新右衛門が近衛家に献上し、一方、細川敏子(護貞の妹)が中島飛行機の甥と結婚して軍需財閥を形成、小西家は軍需財閥の新興勢力の理科研究所の大河内正敏の義兄弟であり、「軍部から喝采を浴びて総理大臣に就任した人物であった。軍人にとって、全体主義ほど好都合のものはなく、世界情勢に無知をきわめる凡庸な近衛ほど利用しやすい公爵様はなかったわけである。」(411ページ)

南京攻略後、大戦争に突入し、一九四十年十月十二日には、「国家総動員法」から新体制運動が展開され、いわゆる「大政翼賛会」ができた。

その後、嵐寛寿郎の登場願おう。慰問で日本帝国軍人の生態を見て、この戦争は負けると確信していた。
『聞き書き鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労・ちくま文庫より)185ページ~186ページ。

(前略)ワテ、はじめ座の幹部も招待される、ちゃんと日本髪結うたん、が出てきます。関東軍は大したものやね、芸者つきで戦争しとる。「おいこら寛寿郎、何かうたえ」やて、ナニぬかしてかつかる。こちとらお国のゼニで買われた体ですよってな、へいと言うてま。せやけどハラの中はカチカチ山です。肝が煮えくりかえっとる。兵隊に苦労させて、自分らは戦費を使こうて芸者遊びですわ。こら戦争負けや、いやほんまにそう思うた。 ケシカランそうは思いながら、あてがわれれば断りまへん。反省しなが芸者抱いとる、ああ良くないな。反省〇〇コや、ワテも大きな事いえまへん。そや寺内元帥ゆうのがいましたやろ、あの人の官舎に泊まった、たしか奉天です。そら大したフトンや、ずっとアンペラやから寝つかれしまへん。ふっとわき見ると、ちがい棚の上にテ文庫がある。金蒔絵ですねん、誰もおらん、拝見しました。これが何と春画なんダ、巻紙の浮世絵です。どんな重要書類かと思うたら、ポルノやおへんか。 戦争こんなものか、"王道楽土"やらゆうてエライさんは毎晩極楽、春画を眺めて長じゅばん着たのと〇〇コして。下っ端の兵隊は雪の進軍、氷の地獄ですわ。慰安所で朝鮮ピー抱いとる、(*編集部注・戦時中、朝鮮人従軍慰安婦はこのように賎称された)現地の女強姦するのもありますわな。その原因がまさしくこれや。(中略)

自分の劇団についてきた片腕の寿之助は現地応召でシベリア抑留、弟も帰還後なくなる。劇団員は六人も戦死。

「憲兵、ほんま怖かった。チンタオで俥曳(くるまびき)きが斬られるところ、この目で見ました 。ここは通れんとか何か口問答をした、ほらた軍刀をぬいていきなり肩口をズボッ、パーッと血が飛んだ。心臓が凍った、無抵抗な者を! はいな、むかってくる者ならよろしい。日本軍弱い者いじめや。これが憲兵の腕章つけとった、戦争あきめへん。(187ページ以下略)

アラカンの満州体験は満英での映画撮影も断ることになった。
「日本が満州で何をしとるかとゆうことをこの目で見てしもうた。根本がマジメやない、タテマエ立派でも、本音はけっきょく日本人の"王道楽土"や。そんなお先棒、ワテはかつぎとうなかった。」

アラカン、見事や。それにひきかえ、日本帝国軍事内閣は、何おかいわんやおへんか。

「国家総動員法」の怖いところは、「軍需産業への動員」であり、「兵器・弾薬船・船舶・航空機の製造はもとより、すべての産業で、「国民は言われた通りに工場で働け」と書かれた法律だったことだ。

だから、ソマリア派遣が突破口になり、自衛隊アフガン派遣して、軍需産業支援して、日本の内需拡大とかいう、冗談はきついのとちゃいまっか。(アラカン風味で)
(以下続く)

















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